ちーちー

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中庸って大事だなぁー

人のふり幅ってほんと良くも悪くもそれぞれで、ふり幅が大きいから良いとか小さいから良くないという話でもない。容量の大きさとふり幅は別物なので、ふり幅が大きいからと言って容量小さいと、あふれてしまい、自分で対処しきれなくなる。

例えば、分かりやすい起伏としては、恋愛の感情は最もふり幅上がる一つ、怒りも感情MAX、悲しみは底。私はどちらかというと、感情的な部類に入るタイプで誰かを好きになったら一直線だし、悲しい時もふつうに悲しむ。でも時々、この人の気持ちわからん。と思うタイプの人もいてそういう人は表に全然出てこない。人という入れ物の中身というのは、本当に多種多様。顔と一緒で誰一人として同じ人はおらんなーと思うのだ。

ふり幅が余りに狭いと、何か緊急事態が起こった時に、その時自分に起こる感情を受け止め切れず、本人が大変な思いをしそうなので、出来れば普段からふり幅はある程度あった方が良いのかなとは個人的には思っている。うちの子供を見ていても思うのだが、割りと「失敗しないように」生きている傾向が強い。冒険をしない。それは平穏なように見えるかもしれないのだが、自力で社会生活を営もうとしたときに身の回りに起こる様々な出来事に対処しきれない場合もあるのではと思う。特に、自分の感情が付いて回るような出来事ーそれこそ、恋愛など―に於いては、やっぱり経験しないより経験出来る方が、絶対に良い。 人それぞれ、「耐性」みたいなものは生まれ持って違っていてだから先に書いたような何考えてるかわからんと周りから思われるような人もいるわけだけど、やはりある一定の限界を超えると、感情には起伏が産まれるはずだから、キャパ超えての感情はやはり本人にとって急に起こる地震のようなもの、収まった後も散乱した家財に囲まれて途方に暮れるのか緊急用の非常食を用意するのか、緊急用の非常食はある人にとっては十数年来のファンであるアーティストの楽曲かもしれないし、ある人にとっては恋人の温もりかもしれないし、ある人にとってはインドへ旅することかもしれない。

自分の振り幅と容量。これは経験、体験を通してでないと体得出来ない。そして、体得するには、平穏無事な道ばかり通っていては、結局何も得るものはない。

私自身は自分でも呆れるくらい、体当たり人生タイプでやってみたら何とかなるでしょ、と思って生きてきているので、自分の振り幅と容量についてはよく理解しているつもりだし、振り幅容量越えのこれまでの経験を思い出すとほんまアンタ頭オカシイんちゃうん?と思われても仕方ないような今となっては誠に恥ずかしいものも、めっちゃある。でも、それのおかげで自分の天井も井戸の底もある程度わかっているつもりだ。

そんな私が思うのが、「中庸って大事だなー」だ。(やっとタイトルにたどり着いた)

中庸とは、過不足なく偏りのない状態らしいんですが、Wikipediaを読むと結構難しい事書いてある…。

中庸 - Wikipedia

うん、うん、わかるわかる。って内容もあるけど、え…そこまでむつかしく考えなアカンの…て、事まで含むようだす。古代中国のエライ人はいろいろ事考えてたんやねぇー。ふむふむ。

難しい事は取り急ぎ置いておいて、中庸。自分の中では、頭の中が凪ぎになっている感じる、と思っています。風が吹いてなくて海面が波打たず静かな様子。静かやけど、いつどんな時もどんな状態にでもなれる準備が整っている、フラットでフレキシブルな状態。

他の人はどうか知らないけど、私はフラットでフレキシブルな自分を見付けるまで、結構な年月掛かりました。

中庸な自分、大事です。