ちーちー

仕事育児仕事育児しごといくじしごといくじ、時々音楽ファッションDIY、あ、アロマも好き♡、んでブログ。いくら時間あっても足りん。

中庸って大事だなぁー

人のふり幅ってほんと良くも悪くもそれぞれで、ふり幅が大きいから良いとか小さいから良くないという話でもない。容量の大きさとふり幅は別物なので、ふり幅が大きいからと言って容量小さいと、あふれてしまい、自分で対処しきれなくなる。

例えば、分かりやすい起伏としては、恋愛の感情は最もふり幅上がる一つ、怒りも感情MAX、悲しみは底。私はどちらかというと、感情的な部類に入るタイプで誰かを好きになったら一直線だし、悲しい時もふつうに悲しむ。でも時々、この人の気持ちわからん。と思うタイプの人もいてそういう人は表に全然出てこない。人という入れ物の中身というのは、本当に多種多様。顔と一緒で誰一人として同じ人はおらんなーと思うのだ。

ふり幅が余りに狭いと、何か緊急事態が起こった時に、その時自分に起こる感情を受け止め切れず、本人が大変な思いをしそうなので、出来れば普段からふり幅はある程度あった方が良いのかなとは個人的には思っている。うちの子供を見ていても思うのだが、割りと「失敗しないように」生きている傾向が強い。冒険をしない。それは平穏なように見えるかもしれないのだが、自力で社会生活を営もうとしたときに身の回りに起こる様々な出来事に対処しきれない場合もあるのではと思う。特に、自分の感情が付いて回るような出来事ーそれこそ、恋愛など―に於いては、やっぱり経験しないより経験出来る方が、絶対に良い。 人それぞれ、「耐性」みたいなものは生まれ持って違っていてだから先に書いたような何考えてるかわからんと周りから思われるような人もいるわけだけど、やはりある一定の限界を超えると、感情には起伏が産まれるはずだから、キャパ超えての感情はやはり本人にとって急に起こる地震のようなもの、収まった後も散乱した家財に囲まれて途方に暮れるのか緊急用の非常食を用意するのか、緊急用の非常食はある人にとっては十数年来のファンであるアーティストの楽曲かもしれないし、ある人にとっては恋人の温もりかもしれないし、ある人にとってはインドへ旅することかもしれない。

自分の振り幅と容量。これは経験、体験を通してでないと体得出来ない。そして、体得するには、平穏無事な道ばかり通っていては、結局何も得るものはない。

私自身は自分でも呆れるくらい、体当たり人生タイプでやってみたら何とかなるでしょ、と思って生きてきているので、自分の振り幅と容量についてはよく理解しているつもりだし、振り幅容量越えのこれまでの経験を思い出すとほんまアンタ頭オカシイんちゃうん?と思われても仕方ないような今となっては誠に恥ずかしいものも、めっちゃある。でも、それのおかげで自分の天井も井戸の底もある程度わかっているつもりだ。

そんな私が思うのが、「中庸って大事だなー」だ。(やっとタイトルにたどり着いた)

中庸とは、過不足なく偏りのない状態らしいんですが、Wikipediaを読むと結構難しい事書いてある…。

中庸 - Wikipedia

うん、うん、わかるわかる。って内容もあるけど、え…そこまでむつかしく考えなアカンの…て、事まで含むようだす。古代中国のエライ人はいろいろ事考えてたんやねぇー。ふむふむ。

難しい事は取り急ぎ置いておいて、中庸。自分の中では、頭の中が凪ぎになっている感じる、と思っています。風が吹いてなくて海面が波打たず静かな様子。静かやけど、いつどんな時もどんな状態にでもなれる準備が整っている、フラットでフレキシブルな状態。

他の人はどうか知らないけど、私はフラットでフレキシブルな自分を見付けるまで、結構な年月掛かりました。

中庸な自分、大事です。

出世欲と終身雇用と自己実現と厳しい現実

自分自身が根無し草のように複数の会社で勤めていたので、ずっとその道が続いていて階段を上がったり分岐する道があったり、山あり谷あり川あり海あり凹あり凸あり壁に耳あり障子に目あり・・・目の前に現れる選択肢や苦悩、どの道を進んでいくべきか、という経験はなくて、私は転職してステップアップをしてきました。人生は死ぬまで永遠続いてはいますが、働く場所は永遠続くものではない、というのが私の人生です。

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これまでの職場にもいろいろなタイプの人がいました。
適当に仕事を片づけて後の事余り考えていない人、一瞬一瞬が勝負だと意気込んで空回りの人、地味にたんたんと仕事をすることで周りから信頼される人、逆にやり方派手やけど中身ないなーって人、常に腹黒・自分の利益しか考えない人、面倒くさがりの人、笑顔が素敵な人、その記憶力どうやって身に付けたんやってくらい個人情報覚えるのすごい人、人脈がすごい人、部下に慕われる人、部下から疎まれる人、ステージごとに見事なパフォーマンスをしてちゃんと出世する人。

企業人と言えば、出世はつきもの。だからといって、全ての人が上に上がれるかというと、そうではありません。出世したくて出世出来る人、出世したくても出来ない人、出世したくないのに何故か出世しちゃう人、始めからその気がなくてずっと平地のままの人。
もし私が一生同じ会社で働くなら、絶対出世したい人の部類に入ると思う。少なくとも、始めからその気のない人にはならない。

マズローの法則っていうのがあって、人の欲求には段階があり自己実現の欲求というのが最も上位に来る欲求である、という法則。
マズローの欲求5段階説 |モチベーション向上の法則
私はこれを学生時代のゼミで学びました。かれこれ20年前の話。当時はモチベーションなんて単語浸透してませんでしたけど。
法則的に見ても、人っちゅーんは、現状に満足できないもんやっていう事なのでしょう。満たされると次が欲しくなるのは自然な事です。

ふと、周りを見渡すと管理職になっておらずかといってこれと言って独自の武器も持たない40後半~50前半の人とかを見ると、うーん、あと10年以上どうやって仕事に向かうんやろぅ、と、かなりお節介な事が浮かんだりします。ほんと、大きなお世話ですよね。でも想像するんですよ、その10年少しの年月。あー、彼には可愛いお子さんがいるんだ、お子さんらと過ごす時間はそれは大切なんだろうなぁー、とか、はたまた、とても仲の良い奥様がいらっしゃって休日には二人で小旅行に出掛けたりするんだ、じゃなくって、あそーか、彼には俳句の趣味があって詩を読んでるいるとき最も充実した時間を過ごせるんだー。と、いらん想像までしてしまうんです。

一体、人生の幸せとはなんぞや?24時間のうちの大半を占める仕事での充実、しかも出世するというサラリーマンの王道?隣の部の独身管理職女史は寝に帰るだけのマンションに多額の給料つぎ込んでるらしい、それって最終的に幸せに帰結するのか?たんたんと仕事と付き合い帰宅後の家族との時間、休日を大切な人と過ごす生き方?

私の身近には公務員の人も居たりして、公務員って終身雇用が大前提の働き方なんよね。でも終身雇用だったらその道をどうやって進むのかは、より一層その人自身の一大関心事になるしやっぱり人間上へ上へ行きたいと思うのは自然な事で、でも公務員と出世街道ってあんまり結び付かないんですよね、何となく。(お国の為に奉仕するのが役目だから、っていう固定観念があるからでしょうか。公務員とは一口に言っても色んな仕事がありますし、出世競争(死語?)が盛んなところもあるんでしょうけどね)

私自身もそれなりにいろんな経験もし、今の置かれた場所に添い遂げ、その中でも少しずつでも何らかの行動を起こして去年の自分よりちょっとでも充足したいなと思っています。出世なんかとは全く縁のない人生ですが、悪くない人生だなって自分では気に入ってます。
激しく成功を求める人には物足りないでしょうけどね。

ほんと人生って人って色々で面白い。色んな会社で働いて、つくづくそう思います。

私が置き場を決めた場所に夫が自分の使ったものを置く件について

いつももめるんです。これで。

主人含め私以外は、基本平らな場所があったら、とりあえず物を置きます。
平らな場所。棚の上、テーブル、洗面所の隅、テレビの前、炬燵、ベッド、イスの座面、ピアノの上(注:アップライトの上じゃなく、鍵盤の蓋の上)、ノートパソコンの上、本の上、さらに床。

とにかく平らであれば置く。斜めになっていると滑り落ちるから、平らであることが絶対唯一条件。

何を置くかというと、ありとあらゆる使ったもの、使うであろうもの、使わなかったもの、買ってきたもの、食べたもの、飲んだもの、読んだもの、聴いたもの、書いたもの。

一番もめる回数多いのは、眼鏡、スマホ、飲んだコップ、それから使った鼻紙。
眼鏡、スマホ、コップなどは、床やベッドにも放置。お尻で眼鏡踏んで割ったろかな、と何百回考えたことか。いや、しませんけどね、家計に響くから。ちゃんと踏まれないとこに移動しますよ。

で、私は、どっちかというと、整頓された場が好きなタイプなんでね、生活大変なんすけど、でも持ちつ持たれつやしね。

でもね、洗面所のこの棚のこの一角は、一等地やから(洗面台に立った時に最も手が届きやすく、どの角度からも物が取れる一番良い場所のことを、自分の中でこう読んでる。)何も置かんと、例えばヘアムース使うときにちょい置きしたり、化粧水の蓋をちょい置きしたり、「一瞬場所いるとき用」にあえて場所空けとく、って決めた定位置とかがあるわけです。私はそこに何も置かない場所、と決めた場所があるんです。

もちろん、そこも平らね。

彼は平らな場所にモノを置く習性がある故に、私が「あえて空けてる場所」に、好き勝手にものをね、置くんです。ちょい置きならいいんです。でも置かれたものは、ずーとそこに居座り続けてますから、ちょい置きじゃないようです。

そして、それをそこに置いたことを忘れてしまう…。そのまま置かれたものたちはそこで数ヶ月過ごすことも。で、また、思い出したように使ったり。

乱れている状態って気持ち悪くないのかなぁ。
え?私が神経質で面倒な人なの?
いや、彼、健忘症?病気?
男性ってこんなもの?

某男性歌手のF山氏の様なスクエアーじゃないとダメだろ!ってタイプの人って少ないとは思うけど、そうは言っても男子はこんなもんなの?世の男性の意見聞きたいわ…。

自分が中心になる状態に違和感を覚えない人と、居心地悪く思う人

例えば忘年会で自分にスポットライトが当たる話題になったら、おとなしそうに見えた人が急にきらきらと輝き出して話し出す人もいるし、恥ずかげに一言二言発したら話題が終了する人もいる。

場の人数が多ければ多いほど、私は後者になってしまう。人数少なければそうでもないのですが。忘年会の席となると、絶対に話題の中心になんてなりたくない。私の話なんて、そんなおもんないですからー(。-ω-)

しかし、普段どっちかというと静かに見えるタイプでも、スポットライト浴びたらイキイキし出す人もいて、人って普段の姿だけじゃ全容わかんねーなーって思う。

私が何で後者かというと、自分物語を人に聞かせる程の価値があると思ってなくて、オチのない話なら最初からしなくていーんじゃないかという強迫観念のせいだと思う。そんなに皆は私の話、真剣に聞いてないのはわかってても、その場が盛り上がらないのは申し訳ないと思ってしまうわけで。多分大阪で生まれ育ってて大阪人て、オチないんかい!って突っ込みますんで、オチない話したらあかんのかのーという思想が刷り込まれてるんかもしれん。

だから、オチる訳でもなく武勇伝でもなくただの感想とかを、周りの人も興味あるような顔でみてないのに、喋り続けられる肝の座った人とかに出会うと尊敬してしまいます。

大阪弁でいうところの「気にしぃ」なんで、オバチャン化しない限り、ずっとこんなんなんでしょうねー。

そういえば小5の私は、古いPCゲームのマスカレードにはまっていました

って事を最近思い出した。

マスカレードなんて聞いたら、TRFの曲?安全地帯の曲?とか言われそうなんですが、そうじゃなくて、古い古いゲームのタイトルです。まだマイクロソフトWindowsを発売する前のPCゲーム。

伯父がPC関連の仕事していて、遊びに行くとそのゲームをさせてくれたんですが、今思うと、こないな難しいゲームよーしてたなぁ、と。ググると、ホントにマニアな人が記事上げてる程度。

賢者の塔 - FLOOR 46 『マスカレード』 : レトロゲームの塔 - The Tower of RetroGame

小5の私には絶対解けなかったであろう難易度。知らされていない私は無謀にも挑戦し、ワケわからんまま解いてやるー!と必死になってました。伯父の家には従姉妹に会いにちょくちょく行ってたので、その度に遊ばせてもらってた。

今はもうゲームで遊びたいと思う事がなくなりました(時間的余裕ゼロ、他にせなあかん事山ほど。ゲームの事は頭には浮かばない)。でも、この古いPCゲームで遊んだ私の活動は、割りと私の原点を物語っているなと、今振り替えると思うところがある。

伯父が何故私にこないな難しいゲーム教えてくれたかっていうと、先にファミコンで一大ブレイクしたポートピア連続殺人事件に私がどっぷりハマる姿をみて、コイツこれも行けんちゃうか、と思ったんじゃないかと。何せ小4か小5かのがきんちょが、ポートピアのヒントやらどこで何拾ろかなど、全てノートにメモをとり解くのに必死やったしwww。
そんな私にもマスカレードは、巨大にそびえたつ難易度高いゲームでした。命令は英語やし(それも伯父に教えてもらっていた。しかし中学の英語の成績は散々。何故に!?)持てるアイテムの数制限あるし。結局、私は小5、小6の夏休みで従姉妹んちに遊びに来ている間には解けずのままフェードアウト。
でも、不透明な霧の中を謎を解いて視界が拓けるような達成感、パズルを一から組み立てるような難解さ、わからないなりに何かしら行動を起こす冒険心。そんなものを総動員して、わくわくしながらゲームしていた記憶がある。

うん、あの頃の私に既に今の原点があるように思えるのは、とても嬉しい事です。今現在、残骸として残っているのは、相棒やサスペンス、刑事物のドラマなんかが好きで夢中で観てるって事ですかね(笑)

世の中の暗い闇の部分について知ること

私は幸い大きな不幸に見舞われる事なく、これまで比較的平和な人生を送って来ました。それは本当に有難い事で、神様に感謝したい。

ところで最近、こんな記事を読みました。(ヘビーな内容と思う人も居ると思うので、それを踏まえて読んで欲しいと思います)
www.asahi.com

こういった世の中の暗い闇の部分について、私達はネットも見ない、テレビも見ない、ラジオも聴かない生活をしていたら、知ることはきっとないでしょう。(人づてで聞くことも考えられますね)でも、今はそこかしこに情報を知ることの出来る装置が存在します。皆が、それを知らせてくれる。それを知らせることを職業にしている人も沢山いる。人のうわさが好きな人も沢山いる。
私もこの記事を、ネットニュースが配信されるアプリから読みました。正直、後でこれ読まなきゃ良かったかな…と少し思いました。これを知ったから、私達どうしたらいいんだろう、こんな極端な出来事を聞かされて、何をしたらいいんだろうと。

先日障害者施設での残酷な殺人事件が起こったり、それこそ親が子を殺す、子が孫が親を祖父母を殺す、なんてことはもう日常です。そんなニュースがない日がない。世の中は暗い暗い闇だらけなのかとも思わされます。もちろん、世界には悪いニュースも良いニュースもどちらも存在し、その量・質というのが半分半分だったらまだましだなと思いますが、やっぱり悪いニュースは非常に残る。頭にも心にも残ります。

私は、数年前に自分が継母になりました。シンデレラに登場するあれです。シンデレラをいじめる悪い母親です。継母という言葉が持つイメージは、あまり良くないんじゃないかと思います。実際、自分が自分のことを改めて「継母」と認識すると、他人事のようで、なんだかなぁ~と思ってしまうのです。でも、一応特に子供が私に噛みついたり殴ったり押し合いへし合いしたり、私が子供たちのことを押入れに閉じ込めたり寝ている間に枕を押し付けたりご飯を与えなかったり、なんてことは今のところありません。子供特有の思春期の面倒くささはあるものの、何とか平穏無事にステップファミリーをやっています。

それもこれも、周りの人のサポートやお互いの思いやり、それから神様のご加護のおかげと感謝しています。

それはそうとして、ステップファミリーだから残忍な殺戮が起きた、とか、両親が離婚し親の生活態度が子供を狂わせ殺人に至らせた、とか、そんな分かりやすい原因で持って、人は凶行に走るかというと、そういう訳ではないんじゃないかと思います。日常のささいな行き違いとか、考え方の擦れ違いとか、コミュニケーションの希薄さだとか、どんな家庭・人間関係にも潜むちょっとした問題点が何年も積み重なって、何かの拍子に爆発することだってあるんだと思います。そして、それは自分の身にも起こりうることだということ。

人は良い面ばかりじゃない。暗い、悪い面だって持ってる。私も。でもやっぱり良心が働いて、悪い行動をさせなかったり欲を抑制したりしているから、平穏でいられる。
でもその歯車が狂うことだって、いつでも可能性としてはあるんですよね。

暗くて本当は聞きたくないニュースも、実際に起こったこととして聞くと、あぁ人ってそんなことをしてしまうんだ、と立止って考えるちょっとした瞬間になるわけで、いつもいつもテンション高くイェーイ!楽しいぜ、ウェーイ!と毎日楽しく過ごしているところに水をさすかもしれないけれど、やっぱり人類皆兄弟、生物として同じ仲間が、犯した間違いについて知るということには、意味があるのかなと、思うことにしました。

本当は、暗い闇の出来事なんて、この世から無くなったらいいのに、って思ってますけど。
そんなお花畑な社会というのは、きっと存在出来ないんだろうなと思います。

数字の書き取りが下手ですねん

最近気がつきました、自分の弱点。。。

数字をメモするのが下手。

特に仕事等で困るのですが、電話を受けて用のある人が不在の場合、メモを残しますよね。で、折り返し電話欲しいという内容のメモだと、相手の連絡先をメモしなくちゃいけないんですが、その時が一番困る。

相手が数字を読み上げる音声を、正確に文字にするのがとても下手なんです。
因みに、電話のパネルに表示されている数字を書き写すのも、けっこう苦手・・・・。

昔、ゲームで脳トレ流行りましたけど、数字をカウントしたりとかのやつ、あれ苦手やってんなぁー。そろばんもやらされたけど、全然面白くなくて苦痛やったなぁー。

PCのキーボード入力は得意やし、数字入力もさほど遅い訳ではなく、普通より随分早い方なんやけど。聞いたり見たりした数字をすぐに書くのが苦手なんやなぁ。

学校で黒板の板書、そういえば、「見て書く」の動作の回数多かったような…。脳に一時的に残す記憶装置のキャパが少ないんかな。

四十過ぎてこんな気付き、遅いですね…。いや、年齢の問題か?!